イザナギの訪れた黄泉の国はハデスの冥府?
死後の秘儀を語るのは仏教だけではないらしい

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私が幼かった頃、日本神話を語るのはタブーだった気がする。
まだ子供だったのでよくわからなかったけれど、先進的なアメリカに憧れる風潮の反対側で大人たちの多くは、戦争を起こして自国も他国も荒しながら結果的に負けてしまった自国を恥じ、過去を消し去りたいと願う自虐的な感覚を長い間引きずっていたように思う。
かと思えば、過激な愛国者(国粋主義者?)という人々もいて、こちらは強気すぎて怖かった。
皇室のロマンスに沸き上がりながら、天皇家にかかわる歴史に触れることはよくないという空気が、私の幼い頃にはあったと思う。これが不思議だった。
大人になってちょっとばかり歴史をかじってからこのことを振り返ってみると、戦争の背景にあった「天孫」の国という選民思想が、多くの不幸を招く結果につながったのかもしれないと思うようになった。
お隣の国では「天」の子は消えたけれど、日の本の国には「天」の子孫が今も存在を示している。
「天」とは一体何なのだろう・・・?「天」の血脈とは・・・?
日本神話の謎・*.: *★*・
他国の介入を受けながら無自覚に自虐的だった戦後世代を生きていた私のような「戦争を知らない子供たち」は、自国の迷信くさい神話を知らないことに何の疑問も持っていなかった。
でも大人になったある時、日本にも神話があることを知って、この国がどのような神話を語って来たのか気になり始めてしまったのだ。
それで「古事記」の訳本を読んでみたのだけど・・・

天の浮橋から、天のヌボコでかきまぜて
この世界をつくった二柱は、高天原からやってきた。

古い神さまが亡くなって新しい神さまが生まれる(つまり天上世界からやってきた神さまは不死ではなかった)という、びっくりストーリーの中に更にびっくりする筋書きが盛り込まれていた。
何で日本神話にギリシャ神話のストーリーがまぎれ込んでいる?
それは、偶然似てしまったとはとても思えなかったし、冒頭のモノゲーネス(ひとり神)が登場する階層的な宇宙論からして、アニミズムな感覚の強い日本の民としては違和感たっぷりだった。
パクられた神話が私たちの神話なのかと、どこか騙された気分に陥ってしまったけれど、それにしてもどの時代に日本は西洋から神話を仕入れたのだ?という疑問が湧いてきた。
私は考えることが好きだけど覚えることは苦手だったので、実生活で活用したことのない歴史授業の内容は全く忘れ去っていたから、基礎知識が希薄すぎてその時は考えることができなかった。
おまけに続く内容が支離滅裂すぎて意味がわからない上に、冒頭の深淵な宇宙論とは裏腹に、どこか下品な表現が多いために、この時は途中で読むのをやめてしまった。
それでも、あまりに荒唐無稽で意味不明なその世界は、私の心に刺さってしまったらしい。
「日本神話」は私にとって「謎のファンタジー」となった。

これは果たして本当にこの国の古くからの言い伝えと歴史の記録なのだろうか?
そこら辺にたくさんある鳥居のむこうにいる「神さま」とは一体何者なのだろう?
日本仏教の謎・*.: *★*・
父の実家は浄土真宗のお寺である。
父は跡を継がなかったけど、小さな頃からあの不気味で意味不明な「お経」が生活にまとわりついていた。
キリスト教会で外国人の牧師さまが語るのは日本語訳された聖書の話だから、納得は別にして語っている話は理解できたけど、お寺の「お経」については、死者を成仏させるための呪文でしかないのだと思い込んでいた。
漢文のお経は、聖書のように日本語訳で読まれないし、仏教がどういう信仰であるのかきちんと理解している人さえ見たことがいないのに、なぜ日本人は葬式になると仏教徒になるのだろう?
その呪文は魔法使いの呪文のように何か楽しいことがおこるわけでもなく、理解して有難がるわけでもなく、生きている人々に非生産的な苦痛の時間を強いるだけで、何の意味があるのかちっともわからない。そんな呪文で死者が仏になったという証も見えないし。

過酷な世界の輪廻から逃れるにはただ修行あるのみ?
修行できない一般人のために生まれたのが大乗仏教というけれど・・・

仏教が何をぶつぶつ言うのかと調べ始めたけれど、調べるほどに理解不能に陥ってしまった。
なぜなら、解説書で読む仏教は「自力」で自分を救済することを説いているのに、浄土真宗は「他力」によって救済されると、あの世のピカピカした神さまのような仏さまに向かって「ナムアミダブツ」と拝ませるのだ。
仏さまって、自分がそこに到達することを目指すロールモデルじゃないのかい?人間には到達できない神さまみたいなのを拝むのは、もはや仏教ではないではないか
教派で解釈が違うというレベルではない。根本が真逆だ。釈迦ではない別の仏を浄土真宗は拝むのであるから、仏教と言いながら釈迦仏教を否定しているとしか思えない。仏教の本質は一体どこにあるのだ?
他の教派には仏や菩薩の他に「天」に属するインドの神さままで登場するし、あるいは道教みたいな護符でまじないをしてみたり、念仏踊りをしてみたかと思えば、だるまさんよろしく四六時中座禅をしてみたり。
キリスト教とゾロアスター教とヒンズー教と道教のごちゃまぜが、いわゆる大乗仏教という何でもアリな日本仏教の正体なのだろうか。

仏教界の天辺から見おろすのはインド神?

日本の仏教は支離滅裂だった。
いや、あまりに荒唐無稽で謎が深すぎて、実はこれも心に刺さってしまったのだが。
お釈迦さまの仏教は、どうやってこのような宗教に変遷してきたのだろう?ここにも「天」が入り込んでいる上に「天」と「悪」は国が変わると逆転もするらしい。
「仏教」が大きな謎となった。
ソウルメイトと出会う・*.: *★*・
私の親戚は坊さん一族だったけど、誰に質問してもはぐらかされ、私の質問にきちんと納得できる答えをくれる坊さんはいなかった。むしろ、一般人のおじさんの方が質問の意味を理解して共感してくれていた。
大人なのだから、小学生が聞くような道徳レベルの話を知りたいわけではない。「仏教は何を説いているのだ?」と、知りたかったのだ。
解っていて答えられないのか、本当に不明なのか、坊さんの頭の中はわからないけど、葬式や法事などの儀式のためだけに経文を唱えるだけのお寺の存在には疑問を感じずにはいられない。
だから、お寺と縁を切ってくれた父には、ある意味感謝していた。
ところが父は、自分でお寺を継がずに血のつながらない兄弟を養子として招いたことが禍となり、後々心労が絶えなくなったらしく50代で亡くなってしまった。
父の苦労は私にはわからないけれど、実を言えば私は男尊女卑思想の中で生きていた両親にはかなり苦しめられながら育ってきたので、女であるというだけの理由で私の自由や尊厳を奪ってきた父が亡くなると、憑き物がとれたかのように心が軽くなり、自由に動き出すようになれたのである。
そうして私は、複数のソウルメイトと思える仲間たちと出会うようになった。ソウルメイトといっても、前世で一緒に過ごしたとかそういうことは全くわからない。
ただ、面白いほど偶然が頻発する関係というのは実際にある。離れていても会話しなくても、何かが伝わって都合の良い偶然が頻発する。ユングの言うシンクロニシティだ。そういう「なぜかシンクロする」ソウルのつながった友をソウルメイトと呼んで、他の友人たちとの違いを感じている。
最初の一人と出会うとチャンネルが開かれたのか、次々リレー式に別のソウルメイトと出会うチャンスが訪れた。
私の不思議体験はそういうソウルメイトたちとの出会いから始まったのだけど、どうやらシンクロするソウルメイトというのは、生きている人間に限らないのだということに、気持ちが向かっていった。
肉体の生死や生きた時代に関係なく、霊的レベルのつながりが人にはあるように思えてならなかった。
多くの人が「神」や「精霊」など何ものかの見えない存在を感じてその実在を信じた歴史は、そういった不思議な体感から生まれたのかもしれない。
量子世界の研究が進んで、「量子間のもつれ」や「意識と物質的ふるまいの関係」等、見えない世界の不思議はこの先少しずつ明らかになってくるかもしれないけれど、アインシュタイン的パラダイムの中にあっては、まだまだ時間や空間を越えて意識がシンクロする謎は明かされてはいかないだろう。
だから素人の私はそういう種のことを科学的に考えたり説明する必要もないし、「妄想」とか「偶然」あるいは潜在意識が見せた「夢物語」として解釈しておけばいいのだろうと思う。
多くの人が先進的な科学的理解で生活しながら、古代からの怪しい星座占いに一喜一憂するのも面白いではないか。そういう天体から生体への影響も、いつか証明されるような次元シフトがくるかもしれない。

神や妄想の生き物たちはどうやって
この世界に生まれたのだ?

私にはとても深刻に悩んでいる時期があった。「Yes」か「No」か、頭では答えが出ているのに、なぜかどうにも感情的に踏み出せずにいたため、山中で自然界の音に集中して自分の感情を解き放とうと試みていた。
そうやって自然の中に意識を置いていたら、意外なことに亡くなった父が頭の中に現れ、突然の謝罪を受けてしまった。もちろんそれは、「気のせい」だろうが、とてもリアルに会話する白昼の夢だった。
姿はなく声だけの父が、風にそよぐ木の葉の音を背景にして私の頭の中で語り始めたのだ。
私の目の前にある悩み事とは、全く関係ない話だったけど、しばしば頭の中で父と語り合ったことで、私は自分の不幸の原因を悟ることになり、常に娘の意思を否定して自分の思うままにしてきたことを謝罪した父を許し、父を恨んだ自分を許したような気がする。
気がついたら、私の問題は解決に向かっていた。父との会話によって、「Yes」or「No」とは別の、「自分を信じる」という突拍子もない選択肢を得たらしい。「Yes」であれ「No」であれ、自分がチョイスした方が正解なのである。自分がチョイスするのだから、言い訳は必要ない。「責任をとる覚悟」を決めてチョイスするのは、何と自由で心地よいことが。
「失敗」は自分が必要とする「学び」のために起こるもので、自身を卑下したり身を小さくするためにやってくるのではない。人の真価は責任のとりかたに現れる。「失敗」は責任の取り方や次なる手段を学ぶチャンスである。
傲慢な父に自由を否定され、いつも父の陰に隠れててきた私は自分を信じることができず、自分の問題にあれこれ逃げ道を探って悩んでいたらしい。問題を解決するには、父親に否定され続けた自分自身を肯定するところから始めなければならないと、原因となった父が出てきて謝罪し、自身の意思や感性を尊重するように諭してくれたのである。
夢の中でそういうことを学んだ時から、「失敗」の意味に着目できるようになり、自分を偽ったり欺いたり落ち込んだりする必要はないのだと知り、女性として生まれてきた自分自身を、ようやく受け入れることができるようになったらしい。
何があっても乗り越える自分を信じ愛する。そんな風に前向きになることで物事を解決するようになると、今度は父ではなく、会ったこともないご先祖さまが「夢の中」に現われるようになってしまった。
私がこれまで「謎」と感じていたことにはどうやら意味があるらしい。その「謎」の多くは、400年前からのご先祖さまにとっての「謎」だったと語ってくれた。
つまり私は父だけでなく、400年前に生きていたご先祖さまともシンクロするソウルメイトであるらしい。
私の心に刺さっていた謎と向き合う準備は、私のこの妄想から始まったのである。