紫雲山 本浄寺というのが、私の祖父が住職を務めた真宗大谷派の、かつて上越市の小さな集落に存在していた別段どうということもない末寺である。本願寺が東西に分裂した、江戸時代の初期からこのお寺は存続してきたらしい。
たぶん、分裂を招いた生々しい原因そのものの中から生まれた多くのひとつなのだと思う。
これが私の先祖が眠る菩提寺である。現在はもうその姿もない。

かつてくびき平野の中心だった場所に菩提寺は建っていたが
やがてその場所は忘れ去られ、そして菩提寺も消えた
関川の対岸にはお城と長沢松平家の広大な菩提寺領地が広がったが
明治以降、そこは軍隊の町へと変貌した

紫雲山 本浄寺・*.: *★*・
このお寺がどうしてここに建ったのか、越前から来たというご先祖さまの足取りを追っているうちに、なぜ北陸にこれほど浄土真宗寺院が多いのか、どうして本願寺は東西に分列しているのか、などという謎も解けて来た。
そんな話は地元にあまり知られていないし、ここに書き残しておくのも意味があるかもしれない
この話以外にも、仏教世界には疑問に思うことがたくさんありすぎて、調べているうちに遠い大陸世界の過去にまで行きつくことになってしまった。仏教を追いかけているうちに、日本神話へ影響をもたらしただろう世界さえも見えてきたことには驚いた。
おそらく、インドや中国だけを見ていても、日本仏教の不思議は理解ができないのだろうし、アニミズムな信仰が突如天神の信仰へ転移する日本神話の謎も、神でも仏でも鬼でも何でも集合させてその「和」を信仰する不思議も、広い世界を見つめてみると面白いつながりが見えてくる。
とりあえず、私が宗教の謎を追いかけるきっかけとなった「消えた菩提寺」をとらえながら、宗教者のありかたについて問うて行きたいと思っている。
北陸に本願寺門徒を増やした原因は、開祖親鸞が越後に配流となったこととは、無関係だ。
けれど、開祖が北陸人の心をつかむ信仰を創出したのは、やはりこの雪深い風土の中で荒波にもまれて生きる人々と、共に暮らした日々があったからなのだろうと思う。
自由のために戦うファミリーたちの信仰する阿弥陀仏。その神秘の力を拠り所に、彼らは明日を信じて生きたのだろうか・・・

本浄寺は、古代に越後国府があったと想定されている今池遺跡の櫛池川対岸にあり、国司館と推定される遺跡がある「下新町」集落の、檀那寺であった。
「新田」ではなく「新町」である。それはかつて福島城から江戸に向かう街道上にできた、新しい町だった。
何しろ、古代には国府のあった場所で、地名から察するに近隣には長者たちがたくさんいたようだ。集落に残る伝承では、かつてここは賑わっており、偉い人たちがこの町に来て、身体を休めていったという。
そこは、くびき平野において川の流れが集まる場所で、水上交通の要だった。ゆえに、古代の国府はこの界隈を選んだのだろう。古代においてシナノに通じる拠点でもあったはず。
そう、シナノとコシはヤマトタケルの遠征にも抵抗する邪魔者だったのだ。そういう抵抗勢力を分断させる必要で、ここは重要だったように見える。
そういえば、2024年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公紫式部の父である藤原為時が、越後国司として着任し、住まいした場所がこの下新町かもしれない、という話もあった。
為時の時代では、国府はすでに海岸へ移動していたかどうか微妙なところであるが、坂上田村麻呂が越後守だった時代にこの場所は、蝦夷討伐において大きな意味があったと思う。
そんな地域の古い歴史もいずれ書いていきたいと思っている。ズーズー弁が通った道は、山の裏側なのである。
ところが福島城が廃された後は街道筋が変わり、古い歴史は忘れ去られ「新しい町」もただの農村へと移り変わってしまったらしい。川の流れは、新しい高田城を守るために城を取り囲むように流れを変えたらしい。

ご先祖さまは越前府中から、越後府中(戦国時代には海岸近くに移動していた)へ援助を求めてやって来た武士だったという家伝があった。
ご先祖さまが古い府中のあった近隣地を開墾したいと思った気持ちは、この寺の住職の苗字に「府」の文字がついていることからも、先祖代々「府中」へのこだわりがあったことを察することができる。
上杉謙信の死によって越前での再興の夢は途絶えたので、越後において古代の府中を偲んでその跡地付近を開墾し、講から寺院に至ったのではないかと、推測している。
「越前府中から越後府中へ」という家伝が正しいことは、このお寺の所有物である、江戸時代に書かれた「夢想国師の伝」の所有者が、越前朝倉氏の府中奉行人の苗字と一致しているので確かなのだろうと思う。
江戸時代の僧侶には表向きには苗字がなかったが、裏向きには越前時代の苗字を使っていたらしい。現在の「府」の文字が入った苗字は明治の「平民苗字必称義務令」からのものである。
その、現在の苗字を受け継いだ現住職は関東に引っ越したため、宗教法人という法的な人格だけは地元に登記を残しているらしいが、住職不在の建造物は取り壊されて消えてしまっている。
私は部外者なので菩提寺が消えたいきさつについては詳しくは知らされていないけど、嫡男であった私の父が家業を継がずに家を出たことに発端があることは知っている。
だが、本当の原因は父のわがままなどではないと思う。父が許せなかった生々しい現実があったからからこそ、父は寺を飛び出してしまったと、私は解釈している。
なぜなら、公務員をやっていた父にとっては親の財産と職業を受け継ぐ方がはるかに安定して幸せだったはずだし、おそらく祖父も父を寺に戻そうと努力していたはずなのに、父は頑としてそれをしなかったからだ。
その生々しい現実とは・・・?
私の部屋に、おそらく日中戦争で使われたと思われる軍銃がある。もちろん、銃身は抜いてある。それは祖父が使ったものらしい。兄が亡くなった後、簡単に捨てられないので私の家に持ってきたが、なぜこんなものが庫裏にある?私の幼い頃には真剣の軍刀もあった。
日本がアジア世界を暗黒に巻き込んで行った裏側で、仏教者たちは一体何をしていた?ということについて、やっと資料となる書籍をみつけたので、その話を書いておこうと思うのだ。