
👈🏽 return back ❤️ Home map 👉🏽
今私の住んでいる上越市は、平成の大合併で周辺の町村を取り込み大きくなった。
とはいえ、相変わらず裏日本の冴えない田舎町だ。元々は、城下町風情な内陸の農村と工業の発達した海辺の漁村が合併して生まれた小さな上越地方の中心都市。南北で気質が違うため、互いを嫌って一体感がない。
「
「上」がつくのは「都に近い」という意味だ。確かに、それがこの地域のアイデンティティかもしれない。ただし、この場合の都は西を指す。東に遷った都なら「中越」の方が近いと思うのだけど、古代から続く呼称は変えようもない。
国府のあった上越地方の方が歴史資源も多いしね
降雪も湿気も多くて生活しずらく、狭くて辺鄙で閉鎖的なこの場所がなぜ「越後」という区分の中心だったのか。若い頃からとても奇妙に感じていたのだ。
ローカルな講演会・*.: *★*・
それで「北国街道潟町宿の歴史と果たした役割」という、今住んでいる浜辺の地域で開催されたローカルな講演会に出席してみた。
上越の歴史ネタのひとつ「ゴールドロード」の話である。
地元にとっては、20年以上かけての運動が実り、ようやく昨年の2024年に佐渡金山が「世界文化遺産」に登録されたということを祝す記念のイベントでもあったらしい。

AIさん、金山テーマでおちゃらけてくれました
史跡 佐渡金山 公式サイト 👉

北国街道というのは、「佐渡金山」と「江戸」を結ぶために整備された街道である。そうであるから、江戸時代に生まれた街道ということになる。
この街道が整備される前の日本海沿岸といえば、「安寿と厨子王」で知られるような「人さらい」や「海賊」が横行するような「無法地帯」だったのかもしれない。現代でさえ北朝鮮が人を拉致して連れていっても誰も気づかないのだ。
私だって彼氏をつくって海岸でデートでもしていたなら、今頃半島で「元帥様万歳」を叫んでいたかもしれない。袋に入れられて船に乗せられたら、もうおしまいだね。
可哀そうな安寿の家族は、人買いに騙されて売り飛ばされたらしいけれど、それはただの物語ではなく、おそらくそういう現実はたくさんあったのだろうと、暗い日本海を見る時に思う。

直江津の港近くにある供養塔
安寿と厨子王伝説の真実は文学小説よりずっと怖い話らしい
佐渡伝説殺人事件 👉

金の奪取・*.: *★*・
金ピカ大好きだった太閤秀吉がまだ元気だった頃、上杉景勝に佐渡の守護代討伐を許し、結果的に島を奪ったのは成り行きではなく、最初から誰ぞの計略があったのではないかと思ったりもしてしまう。
それでその後、関が原の合戦で勝利した徳川家康は、太閤の権力も金を生み出す佐渡も、手中にすることになった。

佐渡で採掘された金は、天領「出雲崎」に運ばれたので、そのまま三国街道を関東に向かう方が江戸までの距離はずっと短くなるけれど、そのかわり越えなければならない坂道は険しくなる。
おそらく重量のある金を運ぶために、傾斜のきつい上州路ではなくそれより傾斜の緩い信州路を経路に選んだのかもしれない。
いや、群馬に住む友人の話によると、往路は上州路を使ったけど、復路まで面倒見きれないから別の道で帰ってくれという話になっていたとか。つまり、金運びの奉行人のお世話をするのも大変な仕事だったという。
・・・という話も確かに納得できるけど、豊臣方から徳川方に寝返った堀秀治や、死後に不正が発覚した金山接収役の大久保長安らの思惑もちょっとは気になるところだ。
江戸幕府の莫大な資金源を管理するために、堀秀治によって浜辺に「福島城」がつくられた。

私のご先祖さまも、福島城と江戸城を結ぶその街道整備にかかわって土地を開墾した一人だったけど、福島城の寿命は短く、新しい城主が高田に城を移したために、ご先祖さまたちが拓いた新しい町は主要街道から外されることになり、古代国衙の遺跡ともに、すっかり忘れられた存在となってしまったらしい。
ご先祖さまが切り拓いたのは、律令時代の国府の跡地付近。ここにつながるかつての官道があったのだと思われる。これを整備し、住みつくために用水や田畑等も切り拓いたのだろう。
その土地の川を挟んだちょうど西側に、新しい高田城が築かれ、金も川向うの道を通って江戸に向かっていった。
高田に逃げたくなった若い殿さまの気持ちはよくわかる。西高東低の冬、日本海から吹きつける風は、夜に眠れなくなるほどぴゅーぴゅーと冷たく恐ろしいのだ。海辺の国道を走る大型バスさえ、頭から波をかぶってしまうほどに荒れ狂う日本海にはびっくりしたものだ。
そんな恐ろしい風にさらされる大潟区の宿場が、金を運ぶためにどのように整備され、街道上でどのような役割があったのか、ということを住民に語る講演だった。
北国街道は北陸道の枝分かれか?・*.: *★*・
北国街道は1611年(慶長16年)に駅宿の指定が行われた。
関ケ原で勝利した徳川家康は、政治の中心を「江戸」に移し、江戸を中心とした街道を早々に整備し始めたらしい。
北国街道は加賀の殿様も参勤交代で使うことになるが、加賀ではこれを「下街道」と呼んでいたと先生は語ってくれた。
それは江戸幕府への反発だろうか。「江戸」を「下」とするのは加賀の主君は「西」にいる、という意味をあからさまに含んでいたように思えるのだけど、前田さん家は西と東のどっち側だったのだろう?
とりあえず、まつ様が人質となって江戸との対立は避けたようだけど、殿様は参勤交代しながら江戸を「下」と呼んで反発していたのだろうか。

日本が律令の国となった頃から、朝廷への抵抗をやめた「
古代の四道将軍の頃から、北東へ向かうコシの道は「北陸の道」だった。五畿七道として成立したのは、天武天皇の時代らしい。北陸から会津に向かった大彦将軍は弥彦神社と関係が深いので、直江津も出雲崎も、北国街道の海沿いの道はその通過点となっていたはずだ。それで・・・
北国街道ができる前の、佐渡までの道は「北陸道」と呼ばれていたのですか?
という質問をしてみたら
そんなの知らん
と言われてしまった。
え?
「ちがう」ではなく「知らない」という言葉で否定されたらしい。
参席していた歴史に興味ありそうな、大勢のどなたさまからのコメントもなく、皆が江戸時代にできた「北国街道」以前に道はなかった、という認識であるかのように見えてしまった。
それで、家に帰ってから早速Wikiで「北陸道」を検索してみた。
古代北陸道の駅
越後国(9駅)
頸城郡滄海駅 8疋 (青海)
頸城郡鶉石駅 5疋 (能生町鶉石)
頸城郡名立駅 5疋 (名立大町)
頸城郡水門駅 5疋 (水門都宇 直江津港)
頸城郡佐味駅 5疋 (馬正面)
三嶋郡三島駅 5疋 (出雲崎)
古志郡大家駅 5疋 (長岡のどこか?)
蒲原郡伊神駅 2疋 (伊神は伊夜日子大神か?→弥彦)
蒲原郡渡戸駅 2艘 <佐渡路> (渟足柵近辺か?)
佐渡国(3駅)
羽茂郡松崎駅 5疋
羽茂郡三川駅 5疋
雑太郡雑太駅 5疋
疋は馬、艘は船の数
伊神駅に馬の数が少ないのは、おそらくこの時代は古志郡から東北エリアに向かって行った為と思われる。信濃川を越えた先に朝廷の陸道はなく、おそらく信濃川と阿賀野川の間に柵が置かれ、古代の対決があったように思う。
以上のように、律令時代には少なくとも新潟市の海岸までは馬が通れる道が整備されていたと記録されているのは確かだ。
でも・・・
武家時代になると国府の役割も駅馬の役所もどうなっていたかわからないし、浜を歩くより船の方が便利だったかもしれない。
大名時代になると古代の官道も新道も、それぞれの領主が勝手に道を管理していたのだろうし、そうなると道の名前など好きに呼ぶのだろう。江戸時代以前の海辺の道はただの砂浜だったのかもしれない。
そもそも潟町の宿場というのは、もともと誰もいなかったところに人を移住させてつくった宿場だというから「江戸時代まで歴史も道もなかった」という無言の回答はここでは正解なのかもしれない。
記録にはあったとしても、誰も知らないのだから地元では「無い」というのが通説だろう。
ただ、新潟で古代の話をしようとしても糸魚川以外でそれは「光の当たらない話」なのだということを改めて実感した勉強会となった。
新潟で歴史が語られるのは、鎌倉時代からなのである。
誰も考えていない新潟の古代など、ここでは人に語ることもできないので、ブログにひっそり書き記すことで自己満足すればいい。
記紀に書かれていない古代史の謎解きがここにある。