人間の「幸」「不幸」の問題は
肉体や環境の物理的な問題だけでは問えない

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人が「不幸」という状態に陥るにはいろいろな原因があると思う。
自然災害、病気、事故や事件に巻き込まれたり、知人や家族に起因する災難に遭うなど、自分の力では避けようもない「不幸」に見舞われることもあるし、自分の態度や発言、あるいはちょっとしたミスによって引き起こされる「不幸」もある。
同じ不運な境遇にあってもそれをむしろチャンスととらえ、反動で上昇してしまう人もいれば、そのまま不幸のドン底に向かって下降し続けてしまう人もいる。
「幸」も「不幸」も人の気持ちのありかたで変わるものだから、状況によって他人が決めつけることはできないものだ。
それでも、多くの人は「生きる」ことを「幸福」の側に置き、「死する」ことを「不幸」の側に置いて、物事を考えているのだろうと思う。
不幸とは?・*.: *★*・
「不幸」について語り始めるとキリがないのだけど、所詮私たちの命は弱肉強食、つまり「食う幸福」か「食われる不幸」か、という究極の問題を前提として生まれてきているのだし、食われなかったとしても「いつか死ぬ不幸」は、生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで隣り合わせになっている。
強きものが弱きものを食べる
避けることのできない食物連鎖
その定めによって地上には、様々な進化のありかたが生まれたようだ
私の「幸福」は、多くの動植物の「不幸」の上に成り立っていることも事実だ。
その「不幸」な犠牲がなかったら、私は飢えてたちまち「不幸」の側となる。
スーパーマーケットに並んだ肉を買って食べていると、そんなことには全く頓着しなくなってしまうのだけど、その「肉」は数日前まで生きていた弱き動物の「不幸」になった姿なのだ。
人間も、かつては弱肉強食の中で他の動物たちと戦いながら、明日は何ものかの餌食になるかもしれない不幸に怯える日々があった。
どうやったら生き残って子孫を繁栄させることができるのか、多くの体験の中から積み上げた学習によって、ご先祖さまたちは「人間という種」の方向性を確立し成長させてきた。
人間は生きぬく自分に必要な「もの」を頭の中に描き出し、「道具」や「構築」「生産」などの文明を現実化させていくうちに、やがて「情報」「思想」など無形の価値に翻弄され、大型生物ではなく目に見えない存在に不安を抱くという不幸を招くようになってしまった。
神業のごとく「無」の中に描いた「有」を生み出す
それが、他の動物と区別する「人間」という種の大きな特徴だ
迷宮の人間社会・*.: *★*・
人間は「牙」や「爪」を捨て、「社会構造」を拡充することで他の動物を凌駕する強さを持つに至ったけど、ところが身を守るはずの「社会」が、人間にとっての新たな脅威となりうるのも事実である。
現代の社会構造の中で生きる私たちの「不幸」は、多くの場合他の動物ではなく人間同士の問題によって引き起こされるようになった。戦う相手はもはや猛獣ではなく、道具を駆使する同族の人間たち。あるいは「言葉」という目には見えない怪物。
今も誰かが、不幸な罪なき動物たちを絞め上げてくれているおかげで自分が生きられている、などという「物理的幸福」への感謝をよそに置き、自分を「立場的不幸」に追い込んだ特定の相手や、あるいはその原因をつくった自分自身を恨み疲れて苦しんだりするのが日常だ。
人間社会を襲う「不幸」は、食べるための「命」のやりとりではなく、無形の「なにものか」を相手にする「命」をのやりとりとなった。
無形の「なにものか」が支配する人間社会は、いくらでも捻じ曲がるし屈折する。ゆえに又、修正も変更も可能なのだ。
進む道に問題が生じる時、大抵は過去から続くその道を守る立場と、壊して目の前の道を正す立場の戦いが起こる。それが「革命」だ。それは、社会だけでなく、個人の心の中にも起こすことができるものだ。
未来を望む姿に変える為には、社会であれ個人であれ、革命を行って過去の因習と対決する必要があるのだと思う。

古い因習を支配した猛獣神を追い払って
新しい文明をつくる人の姿の至高神
「未知なる道具」をもたらす知の神が、新たな文明の主となった

過去を問うのは、なぜ「こうなった?」と「今」を知るためである。
多くの歴史を経て今の「社会」が存在するように、個人も多くの歴史を経て今の「自分」が存在している。
過去を変えることはできないけれど、それを許して問題だらけの「今」を受け入れ、客観的に対処して新しい明日を切り拓くことは、人間にはいつでも可能なのだと思う。
私自身のとるに足らない人生も、過去を受け入れたことで「では、これからどうすべきか」を理解し、前に進むことができるようになったのだと思う。
そういうわけで自分のことも含め、地域のこと、社会のこと、宗教のことなど、「なぜこうなった?」と謎解きをするための「過去問い」を、私なりにやっていきたい。