
日本神話について
日本神話が書かれた書物は二つ。『日本書紀』と『古事記』がある。

『日本書紀』は、国家としての形を整えるために編纂した『国の歴史』なのだろう。天皇家の歴史と、それ以前の神話時代の歴史がセットされて漢文で書かれ、中華の体制に対応したことが覗える。ここには、云い伝えられていた多くの説を記述している。
『古事記』は、神話の神さまと、この国を統べる王さまの物語を、国を主人公としたひとつのストーリーとして描いている。この頃にはまだ使いこなせていなかった中華の文字を、国語とするための文学的試みであったと解釈されているようでもあるけれど、これは国内に向けて、王室の正統性を表明する試みでもあったのではないかと思えたりする。
まとめて『記紀』と呼ばれる二つの書は、登場人物や神名など細かな違いはあるものの、おおまか同じストーリーを追っている。

『国譲り』をしたにもかかわらず、神話時代が終わるその話が天皇家の歴史につながっていかないのは謎だけど、とりあえず神話時代と天皇家は、『天孫』というキーワードによってつながれていくことになる。
そんな天皇家は、やがて武家に政権を奪われることになる。他国であれば普通、権力を脅かす対象は抹殺されるのだろうけれど、武家の時代にも天皇家は、ずっと守られ存続した。
それはある意味『日本神話』の力なのかもしれない。『天皇』は『天照大神』から続くこの国の『天孫』であることが強調されているからだ。人間ごときは『天』に手をくだすことなどできない。『天罰』は恐ろしいのだ。
隣の中華では、『商周革命』で『天』が『神』を抹殺している。『神』を殺したのが『天』ならば、『天罰』などくだるはずもない。
この周王朝が商王朝を討伐した話は『
江戸時代の北斎漫画にも描かれほどに面白いファンタジーだが、原作は『天の
『史記』には、殷(商)王の酒池肉林や残虐性が国を滅ぼしたように書かれているのだけれど、遺跡から推察されるに、残虐だったのは『神殿』だったということらしい。
『神』が支配する王朝を討伐した革命の後、『神』は霊的な存在になり廟に閉じ込められる。そしてまつりごとは『天』に選ばれた人間の『天子』が行うようになるのである。

日本でも、似たような『革命』があった。おそらく『国譲り』の時がそれだろう。『地の神』は統治の権力を『天の使者』に渡した後、社に祀られ霊的な神となったが、『神の民』は『天の民』に強く抵抗していたことが、古代の歴史から読み取れる。
『国譲り』以後、列島を治めるのは人間の王になるが、『天孫』という神秘性を日本神話が強調しているため、『姓』を持たない『天皇』は『高天原』なる異次元から来た『現人神』である。
中華の『天子』は『姓』を持つ人間氏族であり、『神』ではない。ただ、『天』というバックボーンを以って政治を行う『天の代行者』だ。それゆえ『天』に見放されると『易姓革命』されてしまうのだが、実際は『椅子取りゲーム』みたいなものだろう。『天意』を得れば、その『天子の座』に坐る幸運にありつけるのだ。
この考え方は、オリエントの『帝国主義』から始まっているように思う。アッカドの王が、諸民族の守護神さえ従わさせる『帝王』つまり『神の上に立つ天子』となった時、いかに人間に農耕をもたらしたシュメールの神々といえども、用済みとばかりに消えたのだ。そして『唯一神』となったユダヤの神も、かつてこの世界からはじき出されているのである。
『天』はかつて権力者と『契約』して救済したようだが、キリスト以後はあまねく『個人』と契約して救済を行っているように見える。それゆえ『天子』や『天孫』はもはや必要がなくなったのかもしれないが、『天』自体が分裂するという事態に、新しい抗争が生まれているようにも見える。

日本神話と遷聖記

『天』の権力者が力を失い、武家や大名が歴史を動かしていた頃の日本は、出自不明の雑多な神さま仏さま仙さま妖怪たちが混濁して、日本の宗教界は妖しく混とんとしていた。
そこへ、外国勢力がやってきたことで脅威が生れ、国をひとつにまとめる気運が高まり『天皇』という日本の信仰が復活したのだ。
ところが、『天孫』を仰ぐ選民思想は『帝国主義』へと向かうこととなり、そして日本は失敗する。その失敗の後、日本人は反省から君主への傾倒をやめて民主の道を目指すのだが、同時に自国の歴史や神話に目を向けなくなった傾向がある。
自国の神話がどういうものかを常識レベルで知っている人物が身のまわりには全くいない、ということに気が付いて、ある時愕然としてしまったことがある。
日本神話に影響を与えたと思える西方のヘレニズム神話を紹介しながら、このヘレニズムが仏教に与えた影響とか、日本神話も描かなくてはと、これが未熟ながら遷聖記を描こうと思った動機になっている。
