
遷聖記のベース神話

遷聖記のベースとしている神話は、紀元1~2世紀頃のエジプト周辺で隆盛し、現代では忘れ去られてしまった『グノーシス神話』。
忘れ去られたはずの神話が、突如現代に現れたのは、世界を巻き込んだ戦争が終わる1945年のこと。
『天動説』と同じ時代に地中海周辺で隆盛し、やがて弾圧されて姿を消した神話は、エジプトの洞窟の中に永い時間眠っていたらしい。
この眠っていた神話があまりに面白く、『日本神話の謎』や『アジア史の謎』あるいは、かねてより不思議だった『なぜ仏教は西方に伝わらなかったか』などの謎に迫る鍵となりそうだったので、この神話をモチーフとして『遷聖記』をスタートさせてしまった。

これはヘレニズムの思想を伝える写本の神話だが、その2年後にはヨルダン川周辺の洞窟から、古代ヘブライズムの思想を伝える写本も発掘。どちらも、ローマ時代のキリスト教によって弾圧され隠されたように思える。
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現代では『天動説』は『真理ではない』。だが、コペルニクス以前では天の運行を数理で説くことのできる絶対的な『真理』であった。
『天則』=『神』が、キリスト教を支えることになり、そのためローマ周辺にはびこっていたその他大勢の神さまたちが、『天界』から追放されたのだろう。それが、写本が洞窟の中に隠されてきた理由と思える。
何しろ、クリスマスというのもキリストさまの誕生日でも何でもないという。国民感情から中止することのできなかった冬至のお祭りで、祀り上げる神さまをすり替えた、というのがクリスマスの起こりなのだから、捨てられた神さまは哀れである。
だから、クリスチャンでもないのにお祭にのっかっていると卑下することはない。それはもとより『天』を祀るものなのだ。太陰太陽暦では冬至を天則の基準とする、そういう中東由来の神さまが地中海世界で農耕的理由から信仰されていた名残ということらしい。
そうやって、いろんな神さまたちが消えた時に、改宗を拒んだ信者たちは国を出ることになったらしい。写本を洞窟に隠し、西のキリスト世界へ向かうことのできない彼らは、神さまと一緒に一体どこへ向かったのだろう?
日本神話や日本神道の謎を解く鍵はこの辺りにあるのかもしれない。そして、遠回りした大乗仏教の謎もy。
クリスチャンからの弾圧や『天動説』について、史実に基づいた映画『アレクサンドリア』が興味深い。
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グノーシス神話と天文学
『天動説』の宇宙論というのは、数理天文学として書物にまとめたプトレマイオスなるギリシャ人の名を以って伝えられているのだけれど、ベースとなった『天文学』は、何千年も昔の農耕の必要から、すでに始まっていたのだ。
日食や月食の正確な周期発見は、ギリシャよりもメソポタミアの方が先だった。

暦をつくるのに『天』を動かそうが『地』を動かそうが、そこは大した問題ではない。肉眼で見たままを観察する『天動説』で充分季節は語れる。『なぜそうなるのか?』は、別にして。
だが『地』を固定し、動く『天』を観察すれば、神の住む『天界』と人間の住む『地界』は明確に分かれる。人間は動かざる地にあって、神に監視され包括される存在でしかないのだ。
そして果てしなく続く大地の裏側という、見ることのできない世界が人間を悩ます。消えては復活する『冥』の時間に人間は恐怖し、克服すべく神にすがるのだ。
『太陰太陽暦』を使うメソポタミアでは、肉眼で驚くほど正確に星の運行が観測され、星の配置や動きを神の言葉として『天文』をとらえてきた。これが神秘術の始まりである。
農耕地帯では、太陽の光が作物に大きく影響してくるが、沙漠地帯では、昼の太陽は過酷である。人は日中よりも月あかりで夜間に移動する。
また、海においても月は潮の干満と連動するし、人間の出産まで影響をを与えている。植物は太陽の影響を受けるが、動物は月の影響を受けずにはいられないのである。

これが交通の栄えた大陸の、農耕する都で『太陰太陽暦』が発達した理由だと思えるし、太陽と月と地球を併せた天の運行を観察し、『天文』を伝えることは、神殿権威のために、大いに機能したと思える。
同じ農耕の発祥地でも、世界最大のオアシスとなるエジプトは『河の氾濫』という農耕サインが明確だったため『太陽暦』のみ採用された。『天文』は深く追求する必要もなかったと思えるが、他方で河の氾濫は『測量』を発達させたので、その意味で星が求められたのではないかと思える。
『西方グノーシズム』というのは、『測量』と『太陽』のエジプトで、『天文』を操る『太陰太陽暦』のメソポタミアを呑み込んだギリシャ的な宇宙論が、インド的な『自己救済』やイラン的な『善悪対比』を盛り込んだ、究極のヘレニズム思想だった。というのが私の解釈だ。
その中で描かれる『神』は、とても現実的。完全無欠の存在などではなく、『被造物』である人間と同じようにエゴイストで欠点だらけな『欲深き生命』。どこか未知の世界から飛来した宇宙人のような存在である。だからこそ、人間は神を越そうともがくのだ。
そんな『造物神』など美化する必要もなく、人間たちは自分で光明を見いだし神となり、自分で自分を救済しましょう、という仏教に似た思想をベースにして、遊び心たっぷりなギリシャ哲学の楽しめる神話になっているのが『西方グノーシス神話』で、現代では『ナグ・ハマディ文書』の神話とされている。
これが遷聖記のベースとなっている神話である。
グノーシズムの教団には、いろいろな派閥があったらしく、あんまり細かいことを探り始めると、理解不能に陥ってしまうようだ。これは、仏教の教団が支離滅裂なほどに分派してることとよく似ている。案外、仏教の西方伝播型ヘレニズム思想としてグノーシズムが生まれたのかもしれない。
だから、仏教の経典をひとつにまとめられないのと同じように、この思想をひとつにするのは無理なのだろう。
『ナグ・ハマディ文書』の中に登場する『ヴァレンティヌス派』のプトレマイオスが書いた神話が、最も影響力のある洗練された形態らしいので、この神話を中心にして自分なりに解釈した内容を遷聖記で表現したいと思っているのだが、個人的にはこれを『ソフィア神話』と呼ぶことにしている。
💙 サイト内詳細ページ 『ソフィア神話』

グノーシス神話と日本
日本神話の『高天原初発』の神々と、ナグ・ハマディ文書に描かれる『プレーローマ』の神々の構成はそっくりだと思う。
どちらも、地上の神々より前に存在した高位の神々で、最初は独神なのに、後にはアベック神が増えて行き、その末っ子の女神が、地上の神々を産む。この筋書きが全く同じでゾっとした。
これは明らかにプラトニズムが根底にあると思う。エジプトグノーシズムは、ネオプラトニズムと関係が深いらしいので、そこは理解できるのだけど、プラトンの突拍子もない酒飲み話のネタが、なぜ日本神話に?
おまけに、日本神話にはギリシャ神話や南洋の神話もめちゃくちゃ入り込んでいる。それはなぜだろうと、このことを調べてみたら、どうやら日本人がかつて『倭人』と呼ばれていたことと、深く関係がありそうだ。ローマ由来の『グノーシズム』の流入が、それを裏付けてくれる。
『グノーシズム』が隆盛した1~2世紀頃のエジプト周辺って、どういう世界だったのかというと、あの美女で名高いクレオパトラのギリシャ人王朝が失脚し、ローマ化したエジプトの中にギリシャ世界が取り残されていた。
この中で、ギリシャ思想とユダヤ思想が融合され、ギリシャ人好みの錬金術のような自力思想が生まれ隆盛したようだ。

ところがこれは、ファンタジーとしては面白すぎるのだけど『神』を否定する論理であり、かなり仏教に近い。思想として理解するには哲学すぎて難解だ。まずはプラトニズムな宇宙論の理解からはじめなければならない。
結局十字架に磔られたらキリストの『アーメン』の教えの方がわかりやすく、民間に指示されたことで、ローマがそれを利用して『天下』を手に入れた、ということなのだろう。
日本において、農民一揆を起こして権力者と戦った『南無阿弥陀仏』の思想を、逆に利用して平穏をもたらした人物が『天下人』になったことと、通じるものがある。
最終的にローマに支配されたエジプトでは、クリスチャンによってギリシャ学問の大殿堂は破壊され、かつて流行った思想は異端となった。
キリスト教が隆盛する以前の『パクス・ロマーナ』と呼ばれた1~2世紀頃は、自由な風潮があったのだろうと思う。だから、様々な宗教があり、民族も行き来したし、それゆえ交易も盛んになっただろう。
ローマは紅海からインドまで、海を越えて拠点をつくり東方アジアに進出していた。まるで大航海時代みたいに。

1~2世紀頃インドの
ローマ遺跡
『アリカメドゥ遺跡』
そのインドから、ドラヴィダ系タミル人は朝鮮半島まで行き来していたのである。我が国の言葉に残されたタミル語の痕跡についても、研究が行われている。
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大野 晋 著 『日本語はどこからきたのか』
1~2世紀頃のローマの痕跡を残す『アリカメドゥ遺跡』は、インドの東側海岸にある。紀元前の

1世紀頃にインド交易をしていたエジプト州のギリシャ人航海者も、海からの目線で中華の絹をローマ世界に伝えているのだ。
💚 フリー百科事典 『エリュトゥラー海案内記』
初期のシルクロードは、パルティアを通り抜けてローマにつながっていたと解釈されているのだけれど、歴史を見ているとそうは思えない。パルティアを通り抜けてローマと交易することはできなかったように思う。
だからローマは、海路を使ってインドの東側に拠点を置いたのだと思える。インドも西北側はアーリア系が支配していたために、南東で『ドラヴィダ人王朝』と取引をしたのだろう。
ちなみに、『ドラヴィダ人王朝』の王女さまが朝鮮半島にあった『伽耶』の初代王に嫁いだ『許黄玉』であると言われており、2004年に、許黄玉の『インド渡来説』を立証する科学的証拠が示された、というようなことがウィキペディアに書かれている。
💚フリー百科事典 『許黄玉』
ところで『倭人』と同じ習俗の民族は、インドと中華をつなぐ『西南シルクロード』と呼ばれる、まさにそのエリア付近に多く残っている。そして台湾にもいるし、さぐれば海の世界のあちこちに散在している。
実証主義者の書いた『論衡』によれば、今から三千年も前の縄文時代に『倭』は周王朝に朝貢している。『縄文人の丸木舟』ではありえないだろう。
『倭人とは何ぞや?』を考えれば縄文人でも半島人でもなく、史書に書かれた通り、あきらかに水上に生活する民族であり、同じ水の信仰に基づく習俗と結束を以って水路に散らばっていたように思う。それゆえ交易との関係も深かったのだろう。
『倭』はひとつの民族ではなく、ひとくくりにされた同じ習俗を持つ民族の総称で、その『倭』の一部が、『前漢』の朝鮮侵略以後に、日本の土地に上陸して中華との交易のために朝貢を始めた、という気がする。
なぜなら、中華の地理誌『山海経』に『倭』は『燕』に属すとあり、『漢書』には『楽浪海中に倭人あり』と見えるので、『前漢』に追われて南下した渤海あたりの『倭』が、政変で更に南下し、『後漢』時代になって公的な交易を再開するために朝貢を始めた、と見えるからだ。
それゆえその習俗を追えば、『倭』は『西南シルクロード』から朝鮮半島まで、フィリピンや南西諸島をネットワークしていたと思える。
ただの妄想ではないということを、4世紀頃に消えたはずの『グノーシス神話』の『日本神話』への流入が物語るのである。これが、7世紀以後のシルクロードから日本に入ってきて、神話に取り込まれたとは考えにくいのだ。
それが可能なのは、百余国に分かれていた『金印倭王』及び三十国に減った『卑弥呼倭王』の時代なのである。これ以後は、ローマも漢もタミル人王朝もそして倭も、総崩れとなり交易の道が閉ざされるからだ。
