シナノの王さま

西と東を分ける峻険世界

SNSで日本全国の歴史好きの仲間たちと古代史談義をしていると、東西には大きな壁が立ちはだかっていると感じてしまうことがある。

武家の支配から歴史が始まったような東の世界で大昔を語ると、西の世界で熱く語られる時代よりも、もっともっと古い時代の話になる。『倭人はどこから?』という話にはならない。あくまで『日本人はどこから?』だ。大昔もここは『日本』以外の国だったことはないと思ってる。

ヒミコの論争も山の向こうの空論であり、そこに熱くなることは稀である。そもそも奈良や京都の時代は、ここでは空白の時代なんだと思う。古墳もあるけど小さく、語るような歴史がない。島流しの罪人だけが、都で罰せられた流行りものを持ち込んで話題を提供してくれたから、辺ぴな村で能が受け継がれてきたってのはある。

遊び心たっぷりの縄文芸術が面白過ぎる。

日本を『西』と『東』に分けるものは、一体何なのか?これははっきりとしている。『フォッサマグナ』の西縁から向こう側に立ちはだかる峻険な山並みだ。西の世界から見れば『伊吹山地』の向こう側ということになるのだろう。日本の頂上となる雲上世界が本州のど真ん中を東西に分けている。

北アルプス
長野側から見た飛騨山脈人の住む地上と雲上は別世界だ。
琵琶湖から見た伊吹山

地質の異なるプレートがぶつかってできあがった高山は、気候も変えてしまうために東西で食物連鎖が異なるのもあたりまえ。西の『照葉樹』の土地は『定住する弥生人』を育て、東の『広葉樹』の土地は『ノマドな縄文人』を育てたのだから、人の気質もちがうのだ。

境界南端には『富士山』等の火山群が広がって、伊豆の海岸まで火山活動の痕跡がたちはだかっている。ヤマトタケルによる東西の区分けも箱根の『坂』らしい。

伊豆海岸
東西を分ける境界の南端は富士火山帯の坂。溶岩流が伊豆の海岸まで分断している。
北アルプスの北端『親不知子不知海岸』は道路が海の上を走っている。

西の世界から見た場合、北端はおそらく『木ノ芽峠』あたりだろうか。同じひとつの島なのに、日本書紀によれば『大日本豊秋津洲』と『越洲』は別の島という扱いになっている。陸が山によって分断されているからだろう。越えるのが困難だった峠の向こうは『本州』ではなく『コシ』という別のシマだったのだ。

コシの海岸を分断するのも火山岩。東尋坊は荒海の浸食でできた『柱状節理らしい。
日本海側から見たコシの山並み

北アルプスの北端つまり『青海黒姫山』と、『箱根の坂』と、『木の芽峠』を結ぶエリアの中に、日本を分断する峻険な山々がそびえて立っている。

その北辺の海岸部はコシの世界だが、大伴家持の詠んだ万葉集の句(歌番号 17/4000)を見れば、立山に『皇神』が坐していたということである。確かに『立山』というネーミングは意味深だ。そのすぐ南に穂高連邦や『神垣内』がある。

西から東へ向かう東山道で、西国と東国をきっちり分ける『恵那山』は天照大神の胞衣(えな)に由来する『神の出生地』説がある・・・あれ?地図を確認していたらここもだ。神をつなぐとレイライン?この線が日本の東西を分けているのか?

この山並みの中に日本史の闇が隠されいるという感じがしなくもない。


私の目線は東側からなので古くから言われている『飛騨王朝』も恵那の『神坂』もあまり見えてこないのだけど、北アルプスの天辺(てっぺん)にとらわれていたと思われる『神』の存在が目に入って来る。

その場所は『神垣内(かみこうち)』。現代では『上高地』と呼ばれているが、本来は神が垣によって囲われた場所を意味していたとみられる。これは一体何だというのだろう?

神さまが垣で囲われていた?上高地周辺の地名は神の存在を連想させるものばかりだ。

鍵は上高地に祀られている『穂高見神(ほたかみのかみ)』、そして『綿津見神(わたつみのかみ)』だ。

穂高見神(ほたかみのかみ)』は『安曇(あずみ)氏』の祖ともいわれているが、更にその祖は『海津見神(わたつみのかみ)』。『海津見神』といえば、日本神話で語られる神武天皇の母方の『おじいちゃん』だ。ヤマサチを助けた海神とされている。

ところがよくよく調べると、『穂高見神』の系譜で祀られているのは、イザナギとイザナミから生まれた『大海津見神(オオワタツミのかみ)』とは別の『海津見三神(ワタツミさんしん)』で、上中下の三柱から構成されているらしい。

上高地にある『海津見三神』を祀る穂高神社奥宮の鳥居

神話によれば、『海津見三神』はイザナギの黄泉(よみ)帰りの後の『(みそぎ)』の時に生まれている。そしてこの時同時に『住吉三神』も生まれているらしい。

『海津見三神』の子が上高地の『穂高見神』で、その子孫が『安曇一族』ということになる。一方『住吉三神』は『神功皇后』の時に三韓制圧に貢献する神だ。

この『(みそぎ)』の時に同じように生まれた『スサノヲ』がこの後『海』を支配することになる。『海津見三神』と『住吉三神』は『スサノヲ』の配下となったのであろう。その前にいた『大海津見神(おおわたつみのかみ)』の仕事を、彼らが奪うのだから、これはどうにも系譜が違うように感じてしまうのだ。

わざわざ地母神が黄泉に行き、『(みそぎ)』による新しい『神産み』が神話に盛り込まれ、ククリヒメが意味不明に話をくくっているのは、新しい勢力の政権交代劇を示唆しているように感じる。

そして海のスサノヲが、『天神(あまつかみ)』のアマテラスと戦って根の国に追放されるのだが、これはスサノヲがオオクニヌシという新しい『地祇(くにつかみ)』を統治者に育てる物語に発展する。ここで『天』と『地』が、神の世界を分けることになるのである。

『イザナギ・イザナミ』時代には、『天』と『地』の差はなく、おそらくアニミズムの神がいただけだ。おそらく『夏王朝』や『商王朝』もそうだろう。『天』とはまるで中華の商周革命のごとし。『人殺しはいけない』と言いながら大勢の人を粛清した『天道』は『是か非か』?司馬遷も問いたくなる。

『神』を祀る『商王朝』から、『天』を(まつ)り『地』を(まつ)る『周王朝』が、国を奪って世界観を変えたのだ。日本においてもその『天』『地』戦う流れが入り込んで、古いアニミズムの神官君主が『地祇(くにつかみ)』に置き換えられたのだろう。

(まつ)る』と『(まつ)る』の違いは何なのか、調べてみたけどよくわからないんだよね。でもその文字から読めば、『封』は誰かが誰かによってどこかに封じられるってことで、それはつまり土地とか地位を与えられるってことなんだろうな。君主が『天』に『天子』として『封じられた』ことを前提したまつりが『封』ってことなんだろう。

『禅』は文字通りに『ひとえの着物』としか解説されていない。だから、着飾ることを禁じた地味なまつりが『地を(まつ)る』ってことじゃないだろうか。おそらく葬式のような霊を悼むような地味系セレモニーだったんだろうな。ああ、だから質素なことを『地味』と表現するんだね。仏教の『禅』は単なる音の当て字だったけど、以後『禅』という文字に東方で仏教上の概念がつくられてきた。だから神道と仏教で『禅』の意味は別物になると思う。

文字を調べていてわかったのだけど、一年を現わす漢字がいくつかある中で、『歳』を使うのは『夏王朝』で、『年』を使うのは『周王朝』らしい。それで、『商王朝』は?というと『祀』を同じ意味で使うらしい。神が残虐だった商王朝では『祀り』が一年の単位だった、ということだ。


方位を持つ天文学的な測量遊びは、出雲族、安曇族、住吉族のお家芸だ。この三系統の海の民族は、おそらく天文によって海洋を縦横無尽に行き来した龍蛇の倭族なのではないだろうか。スサノヲが支配した『イズモ世界』は、『南回り』の天文学的な技術や文物を、海から運んできたように思う。

一方『天孫族』は、江上波夫氏のいうような騎馬民族をルーツとする『テングリの民』のように感じてしまう。なぜなら、武内宿祢は『倭人』の特徴的な容貌を持つ東の民族を『蝦夷』と言い(景行天皇記)、記紀に描かれる天孫族には倭人の容貌も信仰も見えず、巫女と王によるテングリの政治が描かれているからだ。更に弥生人の『みずら』や武士の『辮髪』はまるで契丹人の習俗に見える。

東へ追いやられた『蝦夷』と『イズモ』の関係が深いことは明らかだし、中華や朝鮮半島に『テングリの民』が浸透して民族を南へ追いやったたこととよく似ている上に、時代も重なる。彼らは『北回りの天』を大陸から運んできたように思う。

💚 フリー百科事典『江上波夫

上高地に祀られている『穂高見神(ほたかみのかみ)』というのは『海津見三神(わたつみさんしん)』の子だ。そして『海津見三神』は『志賀島』に祀られる神である。

『志賀島』というのは、西暦57年に後漢の光武帝から『奴国』に下賜された『金印』が発見された場所である。なぜそこにあったのは不明だけど・・・『海津見三神』とは『奴国』と関係が深いのかもしれない。

そして、『穂高見神』の祀られる梓川周辺には、『倭』や『神』を示す地名がもりだくさんある。ここを訪れた時『やっぱりここは金印王朝の没落の地か?』などと思ってしまったが、この場所を山奥の不便な幽閉地と見るのは弥生目線の思考だ。

縄文目線でみれば、黒曜石の聖地に通じるこの場所は、物資と人の集まる経済都市だったはずである。何しろ梓川は信濃川に通じているのだ。日本一長い信濃川は、関東や東北へとつながる道になる。そして木曽川は岐阜へ。岐阜を取れば、琵琶湖や伊勢湾を掌握できる。琵琶湖の先は瀬戸内海。つまり、日本の海を制するために、ここは没落ではなく進出の為の地であったのかもしれない。

そして天竜川は太平洋へ、姫川は日本海へ向う。更に暖流と寒流の入り混じる魚介の豊富な富山湾に向かう『神通川』『高原川』・・・このネーミングが何を意味するのか。

更にここは船の材料が豊富。寒冷地の針葉樹はとても質が良い。丸太を筏に組んで水量の多い信濃川水系から日本海へ運べるだろう。積雪というのも、丸太運搬には役に立つのだ。信濃川の途中ではアスファルト等の防水接着材も手に入る。海人が、森林の高山奥地を目指した理由は、水源地の掌握と船及び建造物の材料確保にあるように思える。

海津見三神わたつみさんしん』というのは明らかに海神であるのだから、陸と海がつながるこの場所は、海の民族がノマドな目線で切り拓いた特別な場所なのだろう。

そして何よりこの場所が特徴的なのは黒曜石の入手だ。知り合いのマタギさんが試したところ、動物の解体には金属の刃より黒曜石の方が良いらしい。金属が希少だった時代、目の前で採れる黒曜石はとても貴重な存在であったはずである。

日本のヘソと朝鮮半島を抑えていたと思われる、志賀島ファミリーが、帯方郡を味方につけて漢帝国をバックボーンとするのは、そう難しい話ではなかったのかもしれない。

シナノの王さま?

クロヒメの伝承には、『シナノの王さま』と結婚して『ヌナガワヒメ』を生んだ、というものがあるのだが、クロヒメの時代に『シナノの王さま』と称されるのは、上高地の『穂高見一族』つまり『海津見三神(わたつみさんしん)』の子孫しかないだろう、と思える。

そう思いながら地図を見ていると、気づくことがあった。もうひとつのレイラインだ。

クロヒメの名前を持つ池が『志賀高原』にある。そしてその池と並んで『志賀神社』があるのだ。この池と『青海黒姫山』を結ぶと、ド真ん中に『信濃黒姫山』がくる。それと『上高地』を結ぶラインの中に岩戸伝説のある戸隠神社の奥社がくるのだ。

『志賀高原』という名前は、志賀山に由来があるのだが、その志賀山に『志賀神社』と『クロヒメ池』が並んでいるのだから、クロヒメさまと婚姻した『シナノの王さま』というのは、『志賀島』由来の一族に間違いないだろう。池の名前は妻を偲ぶためだろうか。

『シナノの王さま』という呼び方は、かつての『奴国』の王さまと関係が深いのでは?という発想にもなる。

そして岩戸伝説をここに置いたのも、アマテラスやスサノヲの神話をつくった、この王朝を偲ぶものだったととれないだろうか?

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