妙高山

妙高山について

冬の妙高に太陽。空中の黒いシミのようなものは降っている雪。逆光で影になっている。

妙高山みょうこうさん』は新潟県南部にそびえる山で、深田久弥の『日本百名山』にも選定されている

『妙高』とは、仏教聖地の[sumeru]が中華のことばに意訳されたもので、その音訳が『須弥』。仏教用語として日本ではこの妙に高い聖地の山を『シュミセン』と発音している。

💙 サイト内詳細ページ 『 須弥山について

日本において、実際には妙に高くもない辺境の山が、なぜ『妙高』という名を持つかは不明であるが、かつて霊山として信仰を集めていたのは確からしい。明治政府の政策によって霊山としての痕跡は消されてしまっているけれど、登山を楽しむファンは意外と多い。マリアナ諸島まで続く富士火山帯の最北部にある火山のひとつである。

外輪山左が温泉湧く赤倉山 次が前山 一番右が神の座か?神奈山

なぜ『妙高みょうこう』山?

このシンボリックな火山は『くびき郡』の南端ど真ん中に位置するため、『中山(なかやま)』と呼ばれてきたが、この発音で『名香山(なかやま)』と漢字が書き換えられ、更にそれが音読みされて『みょうこうさん』になったというのが通説だ。

だが、室町時代の文献にはすでに『妙高山』という名称で記録されているのに、江戸時代に『中山』と呼ばれていたのだから、通説は矛盾している。
やはり、なんらかの意味があってこの名前が付けられたと思えるのだが、ここは『妙高戸隠連山』というくくりで考える方が、見えてくるものがあるかもしれない。

妙高戸隠連山エリア

妙高戸隠連山国立公園の冬

🧡 参考ページ 『妙高戸隠連山国立公園連絡協議会

古代コシの女王の山か?黒姫山

妙高山の隣が『黒姫山』だ。とても美しい火山。現在は、童話や花畑などで乙女チックな高原というイメージだ。

なぜこの名前なのかというと、上杉謙信とも血縁のある信濃北部領主の息女『黒姫さま』の伝説に基づくと言われているのだが、戦国時代の地元伝説が名前の由来では、界隈にあるその他の『黒姫』とレイラインされることの説明ができない。

💚 フリー百科事典 『黒姫伝説
💙 レイラインを記述したページ 『シナノの王さま

そこで推測するのは、もともと『クロヒメの山』があったのだけど、そこに拉致された領主息女の事件が、日本の昔話によくある邪悪な龍蛇の恋物語として伝説化してしまい、そのため伝説が名前の由来だとされてきたのではないだろうか。

この黒姫山のすそ野には、『野尻湖』なる大きな湖があり、その周辺には幸若舞『烏帽子折(えぼしおり)』で語られるところの『熊坂長範(くまさかちょうはん)』のような大盗賊を輩出するような村がある。

💚 フリー百科事典 『熊坂長範

ナウマンゾウで有名な野尻湖と斑尾山。この湖も妙高戸隠連山国立公園に組み込まれている。


長範は、この村にゆかりがあってその村名を冠して呼ばれているらしいが、出自については別説もあり、この人物が実在したかどうかもわからない。

それでも、この県境にある湖の界隈がそういう大盗賊ゆかりの地として認識されていたということにはちがいなく、室町期の芸能ネタを提供していた信濃と越後の国境世界は、『野尻湖』に集う無頼漢たちの、どこか『水滸伝』のような権勢と戦う江湖世界を匂わせていたのではないかと思えてならない。

龍蛇のごとき暴れ者が少女を拉致した伝説とは関係なく、この山は『クロヒメ』という大昔のコシの女王さまの所領をスポットしているように思える。詳しくは遷聖記の「レイライン」ページに描いているが、そういう古代勢力のまつろわぬ残党たちが、荒々しい世界をシナノの黒姫山周辺に残してきたように思えてならないのだ。

パワースポットとして人気の高い戸隠山

黒姫山の背後には、『岩戸伝説』が語られる『戸隠山』がある。

まつろわぬはずの東国の山に、日本神話の伝説が残されているのはなぜなのか?その東西に金印王朝由来の痕跡らしき世界が見えるのは偶然か?
また、この山の祭神は『九頭竜(くずりゅう)』だ。この山の姿からその名がついたと思われるのだが、日本神話に登場する『八岐大蛇(やまたのおろち)』をほうふつさせるネーミングである。

霊仙寺湖から臨む。飯縄山裾野の向こうが黒姫山、その向こうが妙高山

黒姫山の更に隣は『飯縄山』。この山の祭神は、日本各地で信仰される『飯縄権現』。武将たちに愛されたきた、妖狐と天狗の合体した妖術の神さま。この『天狗の山』の神さまはとても興味深い。

💚 フリー百科事典 『飯縄権現

『妙高山』『戸隠山』『飯縄山』。
『黒姫山』を囲み込む三つの山は、どれも修験道に由来する忍者の山なのである。つまりこのエリアは、古代にゲリラ活動が行われていた拠点ではないかと推測されるエリアだ。

蝦夷を平定したヤマトタケルの記述にも、『シナノ』と『コシ』の抵抗勢力についての問題が記録されている。その詳細はよくわかっていないが、吾妻渓谷までヤマトタケルが迫ってきていたのは、その地名で明らかだが、ここからわざわざ道を分けて吉備武彦がコシに向かっている。

こんな話はあまり古代史で話題にならないが、千曲川を挟んで西にクロヒメ(コシ)勢力、東にシガ(シナノに逃れた志賀島金印王朝関係か?)勢力が見え、その更に東の白根山を越えたところが吾妻の地。現在の観光道路でほぼ一直線につながる。コシとシナノの連合が、この辺りで迫りくるヤマトにゲリラ活動していたのかもしれない。

かつてヤマトに抵抗していたゲリラの残党たちが、後に修験道と結びついて『術』の世界が確立され、忍術や方術、あるいは道術や妖術が、武士の勢力争いに用いられるようになったのではないかと思われるのだが、上杉謙信はこのエリアを含む自領の忍者を『軒猿(のきざる)』と呼んで用いていた。越後VS甲斐との闘いに於いて、武田忍軍に対抗したに違いない。

透波(すっぱ)(武田?)』『突波(とっぱ)(真田?)』『乱波(らっぱ)(北条?)』はサンカ系という見方もあるらしい。忍者の系譜は古代民族の系譜か?

今でこそ『裏日本』だけど、陸の交通網が発達する以前では、日本海側の穀倉地帯は海路によって人や物の動きが多かったわけで、『人買い』伝説が示すように『人間』の取引も多かったようだ。武士時代は『傭兵』というのも商品価値が高かっただろう。

ある意味マーケティングのために、格を持たせるためのネーミングはあったのかもしれない。護法善神などを持ち出して売りにする傭兵なら『妙高山』というバックボーンはナイスなネーミングだが、しかしここはただの勝手な憶測である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA