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本浄寺ノートについて

Posted on 2024-08-302025-06-03 By Sacla 本浄寺ノートについて へのコメントはまだありません

かつて北陸に存在した農民による自治国は
武力によって夢のごとく消え去った
そして、その後は一体どうなったのだろう?

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本浄寺ノートについて

このページの内容・*★*.:.*・
本願寺分裂の戦国を生きたご先祖さま
寺院が世襲?

父の実家のお寺のこととか、ずっと謎だった仏教や神話のことなど、私に与えられていると勝手に思い込んでいる人生の宿題を、WEBログノートに少しずつ書いて行こうと思う。

宿題 👉

お寺の話は、懐古趣味で書こうとしているのではなくて、お寺の存在意義を問いたいのだ。

今の日本で、セレモニー以外に仏教寺院を必要とする場はあるのだろうか?私たち衆生の生きる道を示し精神の救済をしてくれるお寺はあるのだろうか?いや、たぶんあるのだろう。ところが、それらを一括して怪しい集団と、私たちは知りもせずに思い込んでしまうのはなぜだろう?そう思いながらそこに引き込まれていくのはなぜだろう?日本の宗教がこれほど意味不明にゴチャゴチャしているのは一体なぜだろう?

自分の人生をふりかえると、そんなことばかり気になっていたような気がするのだ。

本願寺分裂の戦国を生きたご先祖さま・*.: *★*・

私のご先祖さまは戦国時代に、越前の府中から越後の府中までやってきた武士だったらしい。

でもなぜか江戸時代になると、「真宗大谷派」つまり分裂によって生まれたばかりの東本願寺派末寺の住職となっていた。

このことは、織田信長の越前攻めの際に大名朝倉氏が敗北した後も、越前武士だったご先祖さまは一向宗に加わって、北陸を蹂躙した勢力と戦ってきたということを物語っている。

越後に浄土真宗が多いのは、親鸞聖人遠流の地であるからだと信じている人も多いが、それは本願寺派が多い理由にはならない。浄土真宗の布教が始まったのは、罪人だった開祖がこの配所を去ってからなのである。

「本願寺」が隆盛するのは、貴賤に関係なく「武力」が領地を担保する時代となった応仁の乱以降の、戦国時代からである。

越前武士だったご先祖様は、武士をやめて一向宗として戦ってきたらしい

画像はAIさんの
武士と戦う一向門徒のイメージ

「一向宗」という呼び方は「本願寺」に対する外部からの呼称とされているけれど、農民の抵抗運動は「本願寺一揆」とは言わず「一向一揆」だ。一揆をおこしていたのはあくまで阿弥陀仏を信奉する総称としての「一向宗」。

当時の権力者と戦っていたのは本願寺の門徒だけではなく、門派に関係なく阿弥陀仏のみを一向に信奉し、念仏によって救済を求める信者たち、ということになる。

蓮如によって本願寺が隆盛する以前から、一向や一遍らの活動によって念仏の救済思想は日本の底辺層に広まっていたのだ。蓮如はそういう人々の多い北陸にやってきて、阿弥陀仏信奉者たちの心をつかんだのである。

面白いことに、本願寺から門徒に向かって「一向宗には加わらないように」という通達が発せられていたらしいのだから、本願寺は「一向宗」という念仏グループとは距離を置いているぞ、というパフォーマンスをしていたらしい。

とはいえ蓮如上人以来、時宗など念仏他派を飲み込んで「一向宗」といえば「本願寺」というくらい、本願寺の勢力は拡大していたし、これが主体となって北陸に仏の自治国までつくりあげてしまっていた。

通称「百姓の持ちたる国」。百姓の百姓による百姓のための政治が、リンカーンの革命よりもっと早い時代の日本の田舎に出現したらしい。

一神教のデウスの如く光輝く「仏」を一向してその媒介者としての僧を仰ぎ、自治を阻む者に武力で抵抗しながら、百姓の国は隆盛した。

「百姓」という呼び方は、現代ではあまり印象のよい表現ではないけれど、これは文字通り「数多の姓」であり、つまり「民衆」[people]を指す呼称だ。それが、封建制度によって権力者に搾取される下層の民という代名詞になってしまったらしい。その憎々しい権力者を、百姓という名の一般人労働者が追い払ったのだ。

織田勢力の軍団が足を踏み入れる以前の北陸では、越前朝倉氏も越後上杉氏も、「年貢」を拒んで大名を排除しておきながら、寺院には気前よく「布施」を納めて団結するような武装集団としての百姓に手を焼いて、彼らと敵対していたようだ。

ところが朝倉氏が敗れると、上洛を目指す上杉氏は道中の安全を確保するために、本願寺と手を結んで織田信長を敵にまわすことにした。

北陸は「天下布武の与力軍団」vs「阿弥陀仏と上洛軍神の混交集団」みたいなことになっていったのだろうか。

越後を支配する上杉謙信は、助けを求める他国の敗将たちを多く受け入れていたので、越後に逃れてから坊さんや農民となった諸国の戦国武士たちはたくさんいたらしい。その中にはライバルだった武田家の遺臣たちも。

私のご先祖さまもそういう敗残兵の一人。家伝では「越前府中から越後府中まで援助を求めてやって来た」ということらしい。実際、生き残った朝倉同名衆が、上杉謙信に復活の援助を求めて越後にやって来たという記録があるので、私のご先祖さまはおそらくこの時随行していた内衆家臣団の一人と思われる。

上杉謙信も上洛を前提として北陸の攻略を目論んでいたから、再興の援助を求めた朝倉氏には「上洛時には一城を与える」との確約までして協力関係を期待したらしいのだけど、当時の上杉家は関東の問題に手焼いていたためにすぐには対応できず、信玄が亡くなって武田家の関与がなくなった一向宗と同盟に踏み切り、彼らの活動を援助することで北陸の攻略を考えていたと思われる。

本誓寺長賢という僧侶に一向宗を助けて戦うよう命じたらしいので、当時まだ朝倉氏の家臣だったと思われるご先祖様も、そういう僧侶たちの暗躍する戦いに加わって戦ったのかもしれない。

ところが、上杉謙信が上洛を前にしながら病に倒れたため、朝倉氏再興の夢は消えてしまった。それで、ご先祖さまは武士を捨て、僧侶となるしかなかったのだろうと思う。

北陸で天下布武の勢力と対峙したのは、農具を武器とした農民と、仏弟子たちだった。

画像はAIさんの
戦う坊さんのイメージ

農民を従えてゲリラのように戦ってきた僧兵や戦士たちの過激な戦国事情が、後に本願寺を東西に分けて末寺を増やす結果につながっていったように思われる。

本願寺の穏健派門徒と対立し始めた過激派門徒が、太閤が没した後に徳川家康という後ろ盾を得たことで、当時日本の東西戦争が過激化していく時代の波に巻き込まれることになる。

江戸時代初期、本願寺はこのような戦国事情を背景にして東西に分裂し、新たな門派が開かれ、当時の「講」から多くの末寺が誕生したらしい。

私はそのひとつの末寺の直系ではあるけれど、女子として生まれたために当然ながら、お寺の後継ぎ候補者として扱われることはなく、お寺の問題に関与したこともなく、全く遠巻きに眺めていただけだ。

本来父が継ぐべきだったはずであろうそのお寺を父は継がず、結局のところお寺は姿を消し、宗教法人として遠くの地でビジネス化したセレモニー読経しながら生き残っている。

お寺が本来の教義ではなく、セレモニーを以って生き残る存在となったのは、宗教が日本の政治に利用されてきた、歴史背景に理由があるのだろうと思う。

今の時代になると、継承者がいないという理由でお寺がなくなってしまう、なんていうことは日本中どこにでもありうる問題となってしまった。

葬儀屋さんのように儲かるわけでもないのに辛気臭く、古くなった寺院のあちこちを補修するために檀家さまのご機嫌をとりながら、自らの生活のために副業を持たされ、プライベートを犠牲にしなければならないのが今どきの坊さんの宿命である。

お寺の主が敬われ殿様のようにふるまえたのは、遠い遠い昔の話である。どうやって、息子をいいくるめて寺を継がせればよいのかわからない。

だけどこの話・・・ちょっとおかしくないですか?

❔

寺院が世襲?・*.: *★*・

そもそも共有財産であるべき寺院が世襲という話になるのはなぜだろう?

仏教の教義は本来、財産だの権利だのを主張するような境地から脱することで救済されるのではなかったのか?

そんな基本的な疑問を受け付けないのが、妻帯し子孫を残した親鸞の浄土真宗だ。真宗とは、浄土宗の真の教えという意味だろうか、私にはよくわからないけどこの宗派はずっと、妻帯し血縁で法統を守ってきたらしい。

そもそも煩悩から脱するような苦行という概念もなく、全て苦悩は阿弥陀仏が受け持つという、外部から抑圧された人々への救済思想だから、男女が寄り添い合うことを禁じないし、救済されるべき万民が悪人であることも否定しない。

まぁ、くよくよせずにアミダさんを信じて人を愛しなさい。というところなのだろうか。祖父は浄土真宗の僧侶だったけど、親鸞さまの教えなど祖父から聞いたこともないので、私にはよくわからない。

妻帯し家族を持つことそれ自体は僧侶として全然悪いとは思わないし、むしろそうでなければ人間の苦しみを理解する真の救済者にはなれないだろうと思う。ただ・・・寺院という場で特定の血筋が権力を世襲する構図はどうなのだろう?僧侶たる資質を問わず血縁で寺院を世襲する話はちがうように思うが、まぁ、この宗派は最初からそういう世俗的な信仰で信者を得ているのだから、それもいいだろう。

ところが、浄土真宗どころか「世襲」は、現代の仏門では日本中どの門派でも当たり前になっているのではないだろうか?確か明治5年に、僧侶の「肉食」「妻帯」「畜髪」等が「政府によって許可」されたという、何だかとんでもなくおかしなことがあったらしい。

それは門派の問題であって政府が許可するような話ではないだろうに、江戸時代の政治力によって力を持ち過ぎた仏教界は、今度は明治政府に踊らされ、骨抜きにされてしまったらしい。

明治以来、日本の坊さんたちは妻帯して子をつくり世襲があたりまえになったようだ。だから他人の子に食事を施したり教育を与えたりする必要もなくなった。教育は「寺」ではなく「政府」の問題になってしまった。だから彼らはセレモニーしかやることがないのだ。

そして現代、高齢化した地方社会は少子化や過疎化が進み、経済が衰退に向かう日本中の多くのお寺が跡継ぎ問題に悩んでいる。ましてコロナ禍の後は、セレモニーさえ簡素化し僧侶の存在価値が薄れている。心の問題に悩む人々は新興宗教なる世界に救いを求めてさまようしかなくなるのだろうか。

江戸時代のように、僧侶がふんぞり返る時代ではなくなったというのに、本来重要なはずの宗教上の教義や理念さえも忘れかけて威厳もない。息子や婿にどうやって継がせるのだ。

「世襲」という問題がなければ、寺に入り守りたいと願う人たちはたくさんいるような気がする。東洋思想は実に奥が深いのだ。教えを学び、広めたいと思う人々がお寺を守るべきではないだろうか。

書物ばかりを学ぶ人たちだけではない。実生活から信仰や共同体を必要とする人たちも多いはず。生活苦とか家庭内暴力とか自己喪失とか就労不能とか、「救済の場」を求めてさまよう人たちを受け入れて、個々の道を拓くような救済の文化があってもいいのではないだろうか。

私の父は他力への信仰心がなく、自力でものごとを解決する人だった。だから偽りの信仰心で世襲することなく、お寺と距離を置いて自分の生き方を選んだが、最後は血縁であるという理由で謂れなき責任を問われ、さりとて解決するための権限もなく、不幸の中で早い死を迎えたように見えた。

血縁だからという理由で苦しまなければならない事情は、現在の経費ばかりかかって収入が得られない宗教現場で結構蔓延しているのではないだろうか。

私は直接の関係者ではないけど、坊さんとその継承者の家族という立場で、日本仏教をとりまく周辺の歴史を見つめて謎を追いかけてみたいと思ったのだ。

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