モネのジャポニズム
西の端っこ世界に東の端っこ世界が影響を
与えたらしい話と蔦重とおいらんと・・・高田城

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“五代目瀬川の身請けは吉原を飾った、いわば最後の花火でもあった。”
と、PRESIDENT Onlineの記事は締めくくっていた。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」が好きで、関連するWEB記事を読んでいたのだった。
昨今は、配信サイトで海外ドラマや映画を観るようになり、NHK大河ドラマはさっぱり観ていなかったのだけど、蔦屋重三郎 という人物にはとても興味があったので、NHKがどのように描いてくれるのか楽しみで今年は観ている。
蔦重の初恋は叶わなかったけど、この先多くの作品に彼は恋をしていくのだろう。
ジャポニズム・*.: *★*・
私が高校生の時に好きだったのが、フランスを中心にヨーロッパ各地で流行したアールヌーボーの画風で、特に病的なビアズリーの白黒画には心を奪われていたのだけど、ああいう作風がヨーロッパに流行したその背景には、蔦重の世界に大きな役割があったと知ったのだ。

挿絵画家のビアズリーが友人に宛てた手紙には「ジャポネスク」に言及しており、そこから得たヒントで新しい技法を編み出したと書いていたらしい。

現代のように写真製版ができなかった江戸時代では、木版が使われていたから、いくら原作の筆に魂を込めても、彫師や摺師がその微妙な線や色をなめらかに正確に表現する絵心がなければ、感動は伝わらないのだ。
「浮世絵」は、木版の多色刷りで西洋人に多くのインスピレーションを与え、その影響を受けた西洋人作家が「新しい芸術」として描いた絵を見て、日本人の学生たる私は感動していたのだった。・・・という事実を、歴史を勉強し始めてから知った。
小さな頃から「お茶漬け」の付録などで目にしていた「浮世絵」画風は、日常の中に溶け込みすぎて日本人の私には特別なものではなかったけど、開港以後に木版画でできたあの精巧な多色刷りの絵を観た西洋人の目には、きっと斬新なものだったのだろう。
20世紀初頭の西洋作家の多くがジャパニズムの影響を受けていたというし、日本でマンガやTVアニメが隆盛したのも、職人のコツコツつみあげる技術とその作品を高める文化があったからだと思える。
「南総里見八犬伝」を執筆する曲亭馬琴を描きながら出版業界の舞台裏を描いてくれた山田風太郎氏の小説を読んで、蔦重の周辺にいた作家たちにこの上もない興味を持ってしまった。
新潟出身の作家も登場していたし。
作品を描く作家はもちろんすごいけど、そのコンテンツを正確に伝える技術に長けた江戸のクラフトマンたち、そこに描かれる役者やおいらんたちエンタティナー、そういう世界を取りまとめて市場を動かしたプロデューサーの蔦重に、リスペクトなのである。
そういうわけで、ドラマを観ながら女性の立場では本来あまり目をむけたくない「女郎」の世界に、目を向けることになった。
身請けで懲罰?・*.: *★*・
おいらんだって恋をする。
でも、恋した相手と結ばれるとは限らない。
それでも、大金を払ってくれる相手なら、彼女を大切にしてくれるだろう。
そんな蔦重の恋は創作らしいけど、「瀬川の身請け」は実際にあったらしい。
そんな「身請け事情」の記事が出ていたので読んでいたら驚いた。
当地高田城の話が書かれていたのだ。
PRESIDENT Online 記事 👉
私は江戸時代のことは詳しくないので、ちっとも知らなかった話である。
ドラマに登場した「瀬川」の身請け金「1400両」はかなりの高額であったが、
それよりはるかに多い「2500両」という身請けの話があったらしい。
そんな大金で身請けをしたのは姫路藩の榊原家宗家8代当主
身請けされたのは吉原おいらん六代目の「高尾」。
調べてみると、確かに榊原政岑は「女遊び」や派手なふるまいが好きだったらしい。風流大名とも好色大名ともいわれていたという。
高尾太夫以前にも2人を身請けして側室としていたとされるし、高尾太夫を連れての帰国の大名行列は通常より費用と時間をかけ、有馬温泉にも立ち寄ったとされるが、この温泉でも湯女を3人身請けしたらしい。

でもこの話、ある意味その身を悲しむ女性たちを女郎部屋から解放していたと見れなくもない。できれば、そんな風に解釈してみたい。
能楽の演目『翁』の秘伝「翁之大事」を、吉田家(吉田神道)から伝授されるほどに能楽好きでもあったらしいし、自由人としてお堅い世間に反発したい人だったのかもしれない。
ところが、質素倹約が勧められている最中の派手な振る舞いが、将軍徳川吉宗の逆鱗に触れ、殿さまを引退させられてしまったらしい。
それで榊原家は越後高田城に懲罰的な転封となり、政岑も六代目おいらんだった高尾大夫も、両人とも高田に同行していたという。
それが、当高田城に榊原家が入ったいきさつであるらしい。

処罰されたことで目が覚めたらしく、政岑は財政の苦しかった高田藩で率先して倹約に励み、政務に励んだと、Wikiに書かれているので、当地としては榊原氏の入城は幸いだったらしい。
こんな話があったために吉原の身請け金は、以後「500両」が上限となってしまったという。