かつて北陸に存在した農民による自治国は
武力によって夢のごとく消え去ったという

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私のご先祖さまは戦国時代に、越前の府中から越後の府中までやってきた武士だったらしい。
でもなぜか江戸時代になると、「真宗大谷派」つまり分裂によって生まれたばかりの東本願寺派末寺の住職となっていた。
このことは、織田信長の越前攻めの際に大名朝倉氏が敗北した後も、越前武士だったご先祖さまは一向宗に加わって、北陸を蹂躙した勢力と戦ってきたということを物語っている。

画像はAIさんの
武士と戦う一向門徒のイメージ

本願寺分裂の戦国を生きたご先祖さま・*.: *★*・
「一向宗」という呼び方は「本願寺」に対する外部からの呼称とされているけれど、農民の抵抗運動は「本願寺一揆」とは言わず「一向一揆」だ。一揆をおこしていたのはあくまで阿弥陀仏を信奉する総称としての「一向宗」。
当時の権力者と戦っていたのは本願寺の門徒だけではなく、門派に関係なく阿弥陀仏のみを一向に信奉し、念仏によって救済を求める信者たち、ということになる。
蓮如によって本願寺が隆盛する以前から、一向や一遍らの活動によって念仏の救済思想は日本の底辺層に広まっていたのだ。
面白いことに、本願寺から門徒に向かって「一向宗には加わらないように」という通達が発せられていたらしいのだから、本願寺は「一向宗」という念仏グループとは距離を置いているぞ、というパフォーマンスをしていたらしい。
とはいえ蓮如上人以来、時宗など念仏他派を飲み込んで「一向宗」といえば「本願寺」というくらい、本願寺の勢力は拡大していたし、これが主体となって北陸に仏の自治国までつくりあげてしまっていた。
通称「百姓の持ちたる国」。百姓の百姓による百姓のための政治が、リンカーンの革命よりもっと早い時代の日本の田舎に出現したらしい。
一神教のデウスの如く光輝く「仏」を一向し、その媒介者としての僧を仰ぐことで、百姓の国は隆盛した。
「百姓」という呼び方は、現代ではあまり印象のよい表現ではないけれど、これは文字通り「あまたの姓」であり、つまり「民衆」[people]を指す呼称だ。それが、封建制度によって権力者に搾取される下層の民という代名詞になってしまったらしい。その権力者を、百姓という名の一般労働者が追い払ったのだ。
織田勢力の軍団が足を踏み入れる以前の北陸では、越前朝倉氏も越後上杉氏も、「年貢」を拒んで大名を排除しておきながら、寺院には気前よく「布施」を収めて団結するような武装集団に手を焼いて敵対していたようだが、朝倉氏が敗れた後、上洛を目指す上杉氏は本願寺と手を結んで織田信長を敵にまわしてしまったらしい。
北陸は「天下布武の与力軍団」vs「阿弥陀仏と上洛軍神の混交集団」みたいなことになっていったのだろうか。
越後を支配する上杉謙信は、助けを求める他国の敗将たちを多く受け入れていたので、越後に逃れてから坊さんや農民となった諸国の戦国武士たちはたくさんいたらしい。その中にはライバルだった武田家の遺臣たちも。
私のご先祖さまもそういう敗残兵の一人。家伝では「越前府中から越後府中まで援助を求めてやって来た」ということらしい。実際生き残った朝倉同名衆が、上杉謙信に復活の援助を求めて越後にやって来たという記録があるので、私のご先祖さまはおそらくこの時随行していた内衆家臣団の一人と思われる。
上杉謙信も上洛を前提として北陸の攻略を目論んでいたから、援助を求めた朝倉氏には、上洛時には一城を与えるとの確約までしていたらしいのだけど、当時の上杉家は関東の問題に手焼いていたためにすぐには対応できず、信玄が亡くなって武田家の関与がなくなった一向宗と同盟に踏み切り、彼らの活動を援助することで北陸の攻略を考えていたと思われる。
本誓寺長賢という僧侶に一向宗を助けて戦うよう命じたらしいので、当時まだ朝倉氏の家臣だったと思われるご先祖様も、そういう僧侶たちの暗躍する戦いに加わって戦ったのかもしれない。
ところが、上杉謙信が上洛を前にしながら病に倒れたため、朝倉氏再興の夢は消えてしまった。それで、ご先祖さまは武士を捨て、僧侶となるしかなかったのだろうと思う。

画像はAIさんの
戦う坊さんのイメージ

農民を従えてゲリラのように戦ってきた僧兵や戦士たちの過激な戦国事情が、後に本願寺を東西に分けて末寺を増やす結果につながっていったように思われる。
本願寺の穏健派門徒と対立し始めた過激派門徒が、太閤が没した後に徳川家康という後ろ盾を得たことで、当時日本の東西戦争が過激化していく時代の波に巻き込まれることになる。
江戸時代初期、本願寺はこのような戦国事情を背景にして東西に分裂し、新たな門派が開かれ、当時の「講」から多くの末寺が誕生したらしい。
私はそのひとつの末寺の直系ではあるけれど、女子として生まれたために当然ながら、お寺の後継ぎ候補者として扱われることはなく、お寺の問題に関与したこともなく、全く遠巻きに眺めていただけだ。
本来父が継ぐべきだったはずであろうそのお寺を父は継がず、結局のところお寺は姿を消し、宗教法人として遠くの地でビジネス化したセレモニー読経しながら生き残っている。
お寺が本来の教義ではなく、セレモニーを以って生き残る存在となったのは、宗教が日本の政治に利用されてきた、歴史背景に理由があるのだろうと思う。
今の時代になると、継承者がいないという理由でお寺がなくなってしまう、なんていうことは日本中どこにでもありうる問題となってしまった。お寺があっても坊さんがいないので、法事もできずに困っている、などという話を最近聞くことがある。
葬儀屋さんのように儲かるわけでもないのに辛気臭く、檀家さまのご機嫌をとりながら自らの生活のために副業を持たされ、プライベートを犠牲にしなければならないのが今どきの世襲坊さんの宿命だ。
お寺の主が敬われ殿様のようにふるまえたのは、遠い遠い昔の話。
だけどこの話・・・ちょっとおかしくないですか?
寺院が世襲?・*.: *★*・
そもそも共有財産であるべき寺院が世襲という話になるのはなぜだろう?
仏教の教義は本来、財産だの権利だのを占有するような境地から脱することで救済されるのではなかったのか?
そんな基本的な疑問を受け付けないのが、妻帯し子孫を残した親鸞の浄土真宗だ。「真宗王国」は、法統という名目を持つ「世襲王」が支城たる末寺を支配する。
「天子」が「天」たる父から与えられた権力で「天下」を統べる思想と変わらない。「天皇」ならぬ「仏皇」が「本願寺宗主」なのだ。
妻帯し家族を持つことそれ自体は全然悪いとは思わないし、むしろそうでなければ僧侶として人間の苦しみを理解する真の救済者にはなれないだろう。「悪人こそ救われるべき」という生物として避けられない問題を無視しない教えも、理解が間違わなければ素晴らしいと思う。だが、僧侶たる資質を問わず血縁で財産や権力を世襲する話はちがうだろうと思う。
いやいや浄土真宗どころか「妻帯世襲」は、現代の仏門では日本中どの門派でも当たり前になっているのではないだろうか?確か明治5年に、僧侶の肉食妻帯畜髪等が「政府によって」許可されたという、何だかとんでもなくおかしなことがあったらしい。
それは政府が許可する問題ではないのに、それにのっかる寺院が増えた。
だから、日本中のお寺が跡継ぎ問題に悩むようになったわけだ。
「世襲」という問題がなければ、寺に入り守りたいと願う人たちはたくさんいるような気がする。東洋思想は実に奥が深いのだ。教えを学び、広めたいと思う人々がお寺を守るべきではないだろうか。
事実、私の友人にもそういう人はいた。大学で仏教を学んで、そういう道に進みたいのに、入れるお寺がないという。おそらく、資質だけを問われるなら立派な僧侶になれる人だけど、戸籍まで変えることはできないのだろう。
書物ばかりを学ぶ人たちだけでなく、実生活から信仰や共同体を必要とする人たちも多いはず。生活苦とか家庭内暴力とか自己喪失とか就労不能とか、「救済の場」を求めてさまよう人たちに対して、本来寺院という「サンガ」が救いの手を差し伸べるべきではないのか?
私の父は他力への信仰心がなく、自力でものごとを解決する人だった。偽りの信仰心で世襲することなく、お寺と距離を置いて自分の生き方を選んだ結果、世襲トラブルの責任を問われて追い詰められ、苦しんで病となり若くして亡くなったように見えた。
責任を問うべきは別にいるのに・・・血縁だからという理由で信仰の自由を与えられず、責任のみを問われ苦しまなければならない事情は、現在の宗教現場で蔓延しているのではないだろうか。
私は直接の関係者ではないけど、坊さんとその継承者の家族という立場で、日本仏教をとりまく周辺の歴史を見つめて謎を追いかけてみたいと思う。